プロレスラー鈴木秀樹「やればいいじゃん」 無気力だった少年から“マット界一面倒くさいレスラー”になった男からの檄文【篁五郎】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

プロレスラー鈴木秀樹「やればいいじゃん」 無気力だった少年から“マット界一面倒くさいレスラー”になった男からの檄文【篁五郎】

写真:鈴木秀樹選手提供

 

◾️プロレスデビューはすべてのタイミングがそろっていた

 

 郵便局員としての生活をスタートさせた鈴木秀樹は。ここから真面目に仕事に取り組み、順調にキャリアアップをしていったと書きたいが…

 「とにかくやる気がなかった。郵便物を配るためにバイクの免許がいるから試験を受けたんですけど、3回学科に落ちましたね。最終的には何とか受かりましたけど」

 そこに一つ下のアルバイトが声をかけてきた。伝説のプロレスラーであるビル・ロビンソンが阿佐ヶ谷にジムを開いたので一緒に通ってほしいと言ってきた。190センチを超える体格が頼もしかったのだろう。

 「当時は総合格闘技がブームで、彼もプロレスとか総合格闘技に出たくて京都から上京して、ロビンソンのジムに通っていたんです。でも身体が大きいから練習相手がいなかった。練習相手になってほしいと頼まれました」

 プロレスは好きだったが、しかし鈴木は誘いをずっと断っていたという。

 「右目の視力は生まれつき0.01だし、色覚異常もあったので、運動もほとんどしたことなかったんです。体力もないし、運動神経がいいとも思えなかった。そもそもすぐに諦めてしまう性格だったので、実際に自分がプロレスや格闘技をやるという想像ができませんでした」

 それでも何度も誘ってくる後輩の熱意に負けて、ロビンソンのジムに通うようになった。そこで少しずつ運命の歯車が動き出してくる。

 「ロビンソンの名前は知ってましたけど、直接見たことはありませんでした。実際にテクニックはすごかったです。そしてそれ以上に、レスリングのことを質問すると全部即答で返ってくることに驚きました。普通、いくら自分の得意分野でも聞かれたら少しは「うーん」と考えることがあるじゃないですか。でもロビンソンはその間が全くなかったです。

 例えば、スパーリングをして失敗するじゃないですか。アドバイスを求めると、『次はこうしてみろ』とすぐに言ってくれる。それもダメだったら『これはどうだ』とまた違う視点でアドバイスをしてくれる。そういったやり取りを繰り返していくうちに出来るようになっているんです。この人は、自分の中にちゃんとレスリングが入っているんだなと。とにかく衝撃的でした」

 ロビンソンの指導でメキメキとレスリング技術を向上させた鈴木は、徐々にジム内で頭角をあらわすようになる。当時、ロビンソンのジムには彼を日本に呼び寄せた宮戸優光(※1)が、元プロレスラーを呼んでトークイベントを開催しており、多くの元プロレスラーが顔を出していた。

 そんな折、新日本プロレスでコーチをしていた山本小鉄(故人)がジムへやってくる。当時の鈴木はスクワットやウェイトトレーニングもこなし、身体ができてきていた。体重も100kgの大台に近くなっていた。見込みがあると思われたのだろう。

 「山本(小鉄)さんに、控室でご挨拶をしたら『彼(鈴木)はプロレスやらないの?』なんて言われたんです。うっすらとやってみたいなとは思っていたけど、あの時でもう24歳とか25歳。デビューするにも遅いし、やれるとは思ってなかったんです。でもその後に小林邦昭(※2)さんが来て、小林さんからも『やってみない?』と」

 山本小鉄や小林邦昭との出会いから、鈴木の環境が大きく変化をしていく。

 「郵便局から異動で地方に行けって言われたんです。課長から『ある部署が若い人を欲しがっている。だからそこに行ってくれないか』と言われたんですね。僕は『じゃあ給料いくら上がりますか?』と聞いたら、役職手当が1万円から15000円付くって話だったんです。だから『それじゃあ行けない』と反発して、じゃあ辞めようって宮戸さんに連絡しました」

 郵便局員を辞める決心をした鈴木は、宮戸からIGF※3)両国大会に誘われて観戦することになる。大会当日、鈴木は宮戸から思わぬ話をされた。

 「セコンドを頼まれたんですよ。やったことないからできるわけないのに。でも、やり方教えるから動ける格好を持って来いって言われて、Tシャツとハーフパンツを持っていってセコンド業を何とかこなしたんです。その23日くらい後に『デビューしてみるか』と言われたんですね。『自分でもできますか?』『できるよ。大丈夫だよ』『じゃあやってみます』みたいな感じでデビューが決まったんです」

 全ては偶然かもしれない。郵便局の仕事、ビル・ロビンソンとの出会い、山本小鉄や小林邦昭からの誘い、そしてアントニオ猪木がIGFを旗揚げしたこと、宮戸優光の仕掛け、すべてのタイミングがバッチリと嚙み合ったからこそ鈴木秀樹のプロレスラー人生は始まった。

 

※1・宮戸優光:前田日明が設立した第一次UWFでプロレスラーとしてデビュー。その後は高田延彦と行動を共にするもUWFインターを退団。引退後は「U.W.F.スネークピットジャパン(現:C.A.C.C.スネークピットジャパン)」を設立。代表に就任してビル・ロビンソンをコーチに招聘した。

 

※2・小林邦昭:「虎ハンター」という異名で初代タイガーマスクのライバルとして活躍。全日本プロレスでも二代目タイガーマスクと抗争を繰り広げた。その後は新日本プロレスに復帰。引退した現在は新日本プロレス道場の管理人を務めている。

 

※3・IGF:アントニオ猪木が設立したプロレスと総合格闘技の団体。外食産業大手のジー・コミュニケーションの支援を得て、小川直也や藤田和之といった猪木の弟子以外にもミルコ・クロコップ、ピーター・アーツ、レイ・セフォーといったK1戦士も参戦したこともある。

次のページフリーランスレスラーとして生き抜くために考えていること

KEYWORDS:

オススメ記事

篁五郎

たかむら ごろう

1973年神奈川県出身。小売業、販売業、サービス業と非正規で仕事を転々した後、フリーライターへ転身。西部邁の表現者塾ににて保守思想を学び、個人で勉強を続けている。現在、都内の医療法人と医療サイトをメインに芸能、スポーツ、プロレス、グルメ、マーケティングと雑多なジャンルで記事を執筆しつつ、鎌倉文学館館長・富岡幸一郎氏から文学者について話を聞く連載も手がけている。

この著者の記事一覧

RELATED BOOKS -関連書籍-

捻くれ者の生き抜き方
捻くれ者の生き抜き方
  • 鈴木秀樹
  • 2020.10.24